現代のソーシャルネットワークは「好き」を共感しあう時代なのだという。互いの好きを認め合う、素敵である。そんな現代をわたしは過ごしやすく思っている。そして、しかしそれはそれとして、わたしは、わたしの「好き」を信じない。
なぜならば昨日の自分と今の自分が地続きであるとは、わたしには思えないからだ。あっという間に好きになることがある。あっという間に嫌いになることも。昨日の自分がとても好きだったものが今日も好きとは限らない。わたしの「好き」はとても主観的で、エモーショナルなものだから、再現性には乏しいのだ。だからわたしはわたしの「好き」という感情を、根本的に、まったく、信用していない。
だが、「好き」によって出力されたものは信じる。
出力の中身は何でもいいのだ。文章でも、絵でもいい。ただ最低限、他人に見せて意味が通じるものがいいだろう(つまり、感情的構造が、見た目の物理的構造に反映されている状態を指す)。わたしの場合は推しカプ二次創作だが、ひとによってはAmazonに書いた書評だったり、すばらしい一次創作だったりするかもしれない。曲やレシピというひともいるだろう。大事なのはいざという時に素早く自らの手を動かすこと、そしてあとに残ることだ。
わたしはその「いざという時」に、何度か直面してきた。そういうときは、なりふり構わず、出力を試みなければならない。そのときにしか描けない激情を、取りこぼしてしまうのが、わたしは一等怖いのだ。
さらに恐ろしいことに、出力は習慣づいていないと、すぐに錆びる。絵はとりわけ顕著だが、文章だって、しばらく怠けるとまるで書けなくなってしまう。そうすると、どうなるか。いざという時に身体の中に荒れ狂う激情を出力できず、ぼろぼろと無為に手のひらから零れ落ちるということが起こる。そしてその手のひらから零れ落ちた激情は、もう二度と戻ってこない。決して。
だからその「いざという時」に備えて、わたし(たち)は出力し続けなければならない。
描くのだ。描き続けるための技術を得るのだ。自分の下手さに嫌気がさして、放り出したくなる日もあるでしょう。でも諦めず、たとえ牛歩でも歩みを止めず、精進を重ねなければならないのです。そうやって出力されたものでしか、未来の自分は救えない。そうでしょう? (不)信、それこそがわたしの創作意欲の原点なのです。そうたとえ山野枯れ果つれども、出力済みの愛だけは残る。
そして……、そうした鍛錬の蓄積、また、それに掛けた時間や労力は、鋼の幻覚を生み、自らを更なる高み(もうそう)へと誘ってくれるのだ。